20世紀の芸術と思想の世界には、時代も国籍も媒体もまったく異なりながら、驚くほど深いところで共鳴し合う表現者たちがいます。ポール・ヴァレリー(1871年〜1945年)はフランスの詩人・思想家であり、精緻な言語と哲学的思索によって芸術と身体の本質を問い続けました。一方、ギルバート&ジョージ(ギルバート・プレッシュ、1943年生まれ、ジョージ・パスモア、1942年生まれ)は、ロンドンを拠点とする現代美術のデュオで、自らの身体と日常生活そのものを作品として提示することで国際的な名声を得ました。2人の芸術家が直接対話した記録も、互いを強く意識した証拠も残っていません。ところが「身体と芸術の関係」という軸で眺めたとき、両者のあいだには不思議なほど深い思想的共鳴が浮かび上がってきます。以下では、その接点と乖離を丁寧にたどりながら、身体・芸術・存在をめぐる問いを深く掘り下げていきます。生きた芸術、身体そのものが作品であるヴァレリーはダンスについての考察のなかで、ある特別な瞬間に注目しました。それは身体が単なる「道具」であることをやめ、それ自体が目的となる瞬間です。ふだん私たちは身体を使って何かを成し遂げようとします。しかしダンスにおいては、身体の動きそのものが意味であり、目標であり、完結した出来事となります。ヴァレリーはここに芸術の本質を見出しました。ギルバート&ジョージは、この思想をより急進的な形で実践しました。1969年に発表した初期の代表作《歌う彫刻(Singing Sculpture)》において、2人は顔と手に金属塗料を塗り、台の上で延々と同じ動作を繰り返しながら古い英国の流行歌を流し続けました。その時間は数時間にも及ぶことがありました。自らの身体を彫刻として提示するこの行為は、ヴァレリーが哲学的言語で指し示した「身体の自己目的化」の極限形態と呼べます。「芸術家が作品を作るのではなく、芸術家が作品である」という命題は、ヴァレリーの身体論とギルバート&ジョージの実践が共有する核心です。当時のロンドン美術界において、この作品は衝撃的な問いとして受け止められました。彫刻とは何か。作品と作者の境界はどこにあるのか。ヴァレリーが言葉によって哲学的に問うたことを、2人は自分たちの肉体と時間を使って実証してみせたのです。ひとつ付け加えるなら、《歌う彫刻》の初演では2人があまりに長時間にわたって動き続けたため、ギャラリーのスタッフが途中で休憩を促そうとしたものの、2人はそれを拒否したという記録があります。「彫刻は疲れない」というのが彼らの論理であり、人間の身体に彫刻の論理を適用するという徹底した姿勢を象徴するエピソードです。日常性と儀式、繰り返しの身体ヴァレリーは「習慣」と「注意」の緊張関係に深い関心を寄せていました。日常の身体運動は時間とともに習慣化・自動化され、私たちはそれをほとんど意識しないようになります。歩くこと、箸を持つこと、呼吸すること——これらはすべて、かつては意識的な努力を要した動作が、いつしか無意識の流れのなかに溶け込んだものです。ヴァレリーが芸術に期待したのは、この自動性を破ることでした。芸術的な「注意」は、見慣れたものの表面を剥ぎ、感覚をもう一度生き生きと活性化させます。ロシア・フォルマリズムで言う「異化」に近い概念ですが、ヴァレリーの場合、それは身体的な注意の更新として語られます。ギルバート&ジョージの作品には、日常の断片——新聞の見出し、街頭の風景、自分たちの顔——を儀式的・反復的に提示する構造が一貫しています。大判のフォトピース作品群は、ロンドンの街路や自らの老いゆく顔を、ほとんど強迫的なまでに繰り返し主題化します。そこには明確なメッセージや物語はなく、ただ反復によって日常が異質なものとして立ち現れてくる構造があります。これはヴァレリーが言う「注意による日常の変容」——見慣れたものを異化し、感覚を更新する営み——と構造的に一致しています。手段は詩と視覚芸術というまったく異なるものですが、日常を素材として感覚を再起動させようとする意志は共通しているのです。2人が数十年にわたって一貫してスーツ姿で活動し続けていることも、この反復への意志と無関係ではありません。スーツは彼らにとって日常の制服であり、芸術と生活の境界を消すための装置でもあります。ヴァレリーが詩を書くたびに同じ机に向かい同じ時間に思索したように、2人は同じ服を着て同じ姿勢で世界に臨み続けました。2人であること、身体の複数性と自己の謎ヴァレリーは身体を「私の最も親密なもの、かつ最も謎めいたもの」と呼びました。身体は間違いなく「私のもの」でありながら、しかし完全に把握することも制御することもできない。自己と身体の関係は所有でも同一でもなく、奇妙な近さと遠さが同居した関係です。ヴァレリーはここに哲学的な深淵を見ていました。ギルバート&ジョージは「2人で1人の芸術家」という存在形式そのものを作品化しました。彼らは常にスーツを着て対で行動し、インタビューも展覧会も2人として応じます。個人としての判断、個人としての趣味、個人としての感情——そういった個別性を意図的に曖昧にすることで、「自己とは何か」という問いを存在のレベルで実践しています。ヴァレリーが言語によって解体しようとした精神と身体、自己と他者の二項対立を、2人は生き方のレベルで実践したとも言えます。どちらの発言が誰のものか分からない状態、どちらのアイデアがどちらから来たか判別できない状態——それ自体を「作品」とすることで、個人の自律した自己という近代的な幻想に対する批判が込められています。興味深い話として、2人は1967年にロンドンのセント・マーティンズ美術学校で出会い、ほぼ出会った直後から共同生活を始めたとされています。その後半世紀以上にわたって一緒に暮らし、一緒に働き、一緒に旅してきました。人々はしばしば2人の関係について問いますが、彼らは「私的な生活はない。私たちは24時間芸術家だ」と答えます。これはポーズではなく、ヴァレリー的な意味での「身体の自己目的化」を生活全体に拡張した態度と読むことができます。醜さ・タブー・身体の暗部ヴァレリーは身体の感覚を美的に洗練させる方向で論じることが多く、詩やダンスにおける身体の高揚を肯定的に語りました。しかし同時に彼は、身体の不透明性や制御不能性も冷静に直視していました。身体は理性に服従するものではなく、欲動や衝動を持ち、老い、病み、死ぬ。ヴァレリーの身体論には、そうした暗部への認識も確かに含まれています。ギルバート&ジョージはこの暗部をより正面から、より攻撃的に扱います。排泄物、血液、性、死——これらを大判の鮮烈な色彩で提示する作品群(《腸の魂》シリーズ、1996年など)は、身体の「文明化」によって排除されたものの復権を図ります。近代社会が清潔・整然・理性的とみなすものだけを「芸術」として認めてきた慣習に対する、正面からの挑戦です。この点でヴァレリーとギルバート&ジョージのあいだには明確な温度差があります。ヴァレリーは身体の暗部を哲学的に示唆するにとどまりましたが、2人はそれを視覚的・物理的に突き付けます。批評家のなかには、ギルバート&ジョージの挑発的な身体表現は単なるスキャンダリズムに過ぎないという否定的な見方もあります。確かに排泄物を巨大な画面に展示することへの嫌悪感を持つ観客は少なくなく、1990年代にロンドンのギャラリーで開催された展覧会では抗議の声も上がりました。しかしヴァレリーの問いに照らし合わせれば、彼らの実践は「身体とは何か、何を含むのか」という根本的な問いをより攻撃的に押し広げるものとして読むことができます。美的に洗練された身体だけが芸術の素材ではないという主張は、ヴァレリーが開いた問いの地平を、より過激な方向へ押し広げたものと言えるでしょう。ポジティブな視点から言えば、こうした表現は医療・老い・死を「見てはいけないもの」として隠蔽する社会的慣習に対する批判として機能しています。ネガティブな視点から言えば、ショックを与えることが目的化し、思想的深度が失われるリスクを常に抱えています。どちらの見方も一定の正当性を持ちますが、その緊張関係そのものが彼らの作品に長期的な生命力を与えているともいえます。哲学的詩人と生きた彫刻の共鳴と乖離ヴァレリーとギルバート&ジョージのあいだには、直接的な影響関係の証拠はありません。しかし「身体が芸術の根拠である」という確信において、2者は深い思想的連続性を共有しています。ヴァレリーは言語と思索によって身体哲学に到達しました。詩を書くことは身体の緊張と弛緩のリズムを言葉に刻むことであり、思想とは肉体を持った存在が行う営みです。彼の詩論・芸術論は常に身体的な感覚の問題と切り離せません。ギルバート&ジョージは「生きることと作ることを一致させる」という実践によってその命題を体現しました。作品を作るためのアトリエも、作品を生産するための時間も、彼らには存在しません。彼らの全存在が作品であり、日常の一挙手一投足がすでに芸術の一部です。共通点を整理すると、まず身体の位置づけについて、ヴァレリーは思考と感覚の交差点として身体を捉えたのに対し、ギルバート&ジョージは身体そのものを作品として提示しました。芸術の定義については、ヴァレリーが感覚の自己目的化を芸術の本質と見たのに対し、2人は存在の自己芸術化を実践しました。日常との関係については、ヴァレリーが注意による異化を語ったのに対し、2人は儀式的反復によって日常を変容させました。自己の境界については、ヴァレリーが身体の謎と不透明性を哲学的に問うたのに対し、2人は複数的自己という存在形式によってその問いに応えました。最大の乖離は、ヴァレリーが生涯にわたって知的な省察者の立場を保ち続けたのに対し、ギルバート&ジョージは自らを完全に作品のなかに投じたという点にあります。哲学者と実践者、詩人と彫刻——その違いは大きいようでありながら、身体を芸術の根拠に置くという確信においては、両者は驚くほど近い場所に立っていました。人は芸術について語ることができます。人は芸術を作ることができます。しかし人が芸術そのものになるとはどういうことか——ヴァレリーが問い、ギルバート&ジョージが生きたこの問いは、身体と存在の本質をめぐる問いとして、今もなお有効であり続けています。参考文献Paul Valéry, L'Âme et la danse (1923), Gallimard Paul Valéry, Degas Danse Dessin (1938), Gallimard Paul Valéry, Cahiers (全29巻), CNRS editions Gilbert & George, The Complete Pictures 1971–2005, Tate Publishing (2007) Michael Bracewell, Gilbert & George: Major Exhibition, Tate Modern catalogue (2007) Daniel Soutif (ed.), Gilbert & George: The Singing Sculpture, Sonnabend Gallery documents Andrew Wilson, "Gilbert & George: Interview," Art Monthly, No. 147 (1991) Michael Peppiatt, "The Art of Being Gilbert & George," The Art Newspaper (2005) Rosalind Krauss, The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths, MIT Press (1985) Christina de Montfort, Valéry and the Philosophy of Arts, Routledge (2012)