日立製作所という会社名を聞いて、多くの人が最初に思い浮かべるのは、冷蔵庫や洗濯機、エアコンといった家電製品ではないでしょうか。戦後の高度経済成長期から日本の家庭に寄り添い続けてきた「日立の家電」は、もはや一つの文化といっても過言ではありませんでした。ところが2021年、日立はその家電事業をノジマに売却すると発表し、世間に大きな驚きを与えました。「日立がついに家電を捨てた」という言葉がニュースを駆け巡ったとき、それを聞いた人々の受け取り方は二つに分かれました。企業としての弱体化を嘆く声と、むしろ賢明な選択だと評価する声です。では実際のところ、この決断はどちらだったのでしょうか。日立再生の起点、川村・中西改革の時代話を理解するためには、まず2009年前後の日立がどれほど深刻な状況にあったかを知る必要があります。2009年3月期、日立は7873億円という当時の製造業としては過去最大規模の最終赤字を計上しました。同期の売上高は10兆3億円あったにもかかわらず、純損益がこれほどの赤字に陥ったのですから、その衝撃の大きさは想像に難くありません。リーマンショックによる需要急減に加え、薄型テレビや半導体事業の不振が重なり、連結ベースの自己資本比率は前年度の20.6%から11.2%へと急落し、会社そのものの存続が問われる事態となりました。この危機を救ったのが、川村隆氏と故中西宏明氏による強力なリーダーシップです。川村氏が会長として経営の舵を握り、中西氏が社長としてその改革を実行に移しました。まず3492億円という大規模な増資を断行し、自己資本比率を18.8%まで回復させると同時に、HDD事業を48億ドル(当時約4400億円)で売却して財務を立て直しました。さらに55年続けてきたテレビ生産からの撤退を決断するなど、「何でもやる」という総合メーカーの体質そのものを見直す本質的な構造改革を進めたのです。2014年に社長に就任した東原敏昭氏は、その流れをさらに加速させた人物です。彼のキャリアは日立の中では異色で、品質保証部という、いわばものづくりの現場に近い「傍流」とも言える部署を長く経験してきました。エリートコースを歩んできたわけではないからこそ、縦割りの組織の弊害を肌で知っており、それを変えるための説得力を持っていたとも言えます。ルマーダという大きな賭け東原改革の中心にあるのが、「ルマーダ(Lumada)」という概念です。これは一言で言えば、日立が企業の課題を解決するために提供するデジタルソリューションの総称です。AIやビッグデータを活用し、製造・物流・エネルギー・金融・医療などあらゆる分野の企業に対して、業務の効率化や新しい価値創造を支援するプラットフォームとして設計されています。その成長ぶりは数字に如実に表れています。2023年度の時点でルマーダ事業の売上高は日立全体の27%を占めており、収益性を示すAdjusted EBITA率は15%に達しています。これは一般的な製造業の利益率と比べても相当高い水準です。さらに2027年度を目標とした新しい中期経営計画「Inspire 2027」では、ルマーダ事業の売上比率を50%、Adjusted EBITA率を18%にまで引き上げることが目標として掲げられています。日立全体の売上の半分をルマーダが占める日が来るとすれば、それはもはや「家電メーカーの名残」を持つ企業ではなく、完全にデジタルインフラ企業へと生まれ変わったことを意味します。実はこのルマーダの発想には、東原氏自身の経験が色濃く反映されています。彼がかつて関わったJR東日本の東京圏輸送管理システム(ATOS)は、ある駅でシステム障害が起きても他の駅が正常に動き続けるという「分散型」の設計思想を持つものでした。この考え方を経営に応用したのが「自律分散型グローバル経営」であり、世界各地の拠点がそれぞれ独自に動きながら、ルマーダという共通基盤でつながるという体制です。担当したインフラシステムが、そのまま自社の経営哲学になったというのは、なんとも日立らしい話です。22社の上場子会社がゼロになった大再編ルマーダ戦略を実行するために、東原氏が行ったのがグループ企業の大規模な再編です。2006年度の時点で22社あった上場子会社は、2022年度にはゼロになりました。これは数字だけ見ると驚異的な変化ですが、その内容はさらに興味深いものです。売却されたのは、日立化成・日立建機・日立金属といった製造系の企業群でした。これらはいずれも日立の「ものづくり」を支えてきた存在であり、それ自体の技術力や収益力がないわけではありません。しかし日立が目指すデジタルインフラ企業というビジョンとは「方向性が違う」という判断が下されたのです。一方で、半導体・計測機器などを扱う日立ハイテクは逆に完全子会社化されました。ルマーダを支えるデータ収集・解析の基盤として活用できると判断されたからです。売る企業と残す企業の基準は一貫していました。「ルマーダに貢献できるかどうか」です。この一点で巨大グループの構造が根本から作り直されたのですから、その決断の大きさは計り知れません。同時に1兆円規模のM&Aも2件実施しており、デジタル・インフラ分野での能力補強にも積極的でした。その結果、2023年度の受注残(バックログ)はGEMセクター単独で10.2兆円に達しており、今後数年間の売上がすでに手元にある状態です。これは「稼ぐ力の先食い」ではなく、長期契約型のビジネスへの転換が着実に進んでいることを示しています。家電売却は弱体化か、それとも合理的な集中かこうした流れの中で考えれば、家電事業の売却は突然の出来事ではなく、必然的な帰結として見えてきます。家電は「薄利多売」の典型的な事業です。グローバル市場ではサムスン・LGといった韓国勢や、さらに価格競争力の高い中国メーカーと戦わなければなりません。日立の家電が品質で優れていても、価格の差が大きければ消費者の選択は変わります。改革の成果は株式市場も正直に反映しています。かつて1000円台で低迷していた日立の株価は、構造改革が進むにつれて上昇を続け、2024年時点では時価総額が約7.8兆円に達しました。2009年の危機的状況と比較すれば、企業価値は文字通り別次元に到達しています。3期連続で最高益を更新したという事実もあわせて考えれば、家電を手放した判断が財務的に「正解」だったことは数字が証明しています。ノジマが家電事業を買い取ったことにも、それなりの合理性があります。家電量販店として売り場を持つノジマが、自社ブランドの商品ラインも持てることになるわけですから、仕入れコストの削減や商品戦略の自由度が大幅に広がります。売る側にとっても買う側にとっても「合理的な取引」だったと言えるでしょう。家電売却の裏側ここで少しあまり表立って語られることのない視点をお伝えしたいと思います。日立が家電を売った背景には、「ブランドの重さ」という問題もあったとみられています。日立の家電ブランドは長年にわたって高品質のイメージを保ってきましたが、それゆえに価格帯を下げることが難しく、市場での柔軟な戦略が取りにくい状況にありました。安売りすればブランドを傷つける、かといって高価格帯を維持すれば売上が伸びない。このジレンマは、インフラ企業としての日立と、家電メーカーとしての日立が同じ名前を背負っていることから生じる構造的な問題でした。また、グループ内の「文化の違い」も見逃せません。家電事業は消費者との直接的なコミュニケーションを重視するBtoC(企業から消費者へ)のビジネスです。一方、ルマーダが対象とするのは企業同士のBtoBビジネスです。この二つは、マーケティングの手法も、営業の考え方も、投資の回収期間も、すべてが異なります。同じ組織の中でこの二つの文化を共存させることは、見た目以上に難しく、どちらかが足を引っ張る構造が生まれやすいのです。さらに言えば、家電事業が「社内の既得権益の温床」になりやすいという側面もあります。長い歴史を持つ事業は、それを守ろうとする人たちを社内に生み出します。改革を進めたい経営陣にとって、そうした抵抗勢力を抱えながら全体の変革を進めることは大きな負担です。家電事業を切り離すことは、組織の風通しをよくするという意味でも、一定の効果があったと考えられます。実は、売却交渉の水面下では「日立ブランドの使用権」をめぐって相当な議論があったとされています。ノジマが取得したのは事業と製造ラインだけでなく、「日立」という名前を家電製品に引き続き使う権利も含まれていました。これは日立側にとってもデリケートな問題でした。自社のブランド名が、もはや自分たちが管理しない製品に使われ続けることへの葛藤は、社内でも小さくなかったとみられます。それでもブランド使用を認めたのは、突然の「日立家電消滅」によって消費者が混乱することを避けるためであり、同時に既存ユーザーへのアフターサービスを継続する責任を果たすためでもありました。つまり家電売却は、ビジネス上の判断であると同時に、長年の顧客に対する最後の義理でもあったのです。もちろん、ネガティブな側面も無視できません。日立の家電ブランドは、一般の消費者にとって「日立」という企業名を知るほぼ唯一の接点でした。家電を手放したことで、日立という社名が一般家庭から徐々に消えていく可能性があります。社会インフラを担う企業として信頼を得るためには、一般市民からの認知も重要です。インフラ企業としての日立がどれだけ社会に貢献していても、その姿が見えにくければ、採用や社会的信頼の面でマイナスに働くことも考えられます。日立の選択が示す日本企業への示唆日立の変革は、日本の大企業が長年抱えてきた問題と向き合う一つの答えを示しています。「総合的に何でもやる」という戦略は、高度経済成長期には有効でした。しかしグローバル競争が激化し、デジタルが社会を根本から変えていく時代においては、それがかえって足枷になります。新・中期経営計画「Inspire 2027」では、売上高の年平均成長率7〜9%、Adjusted EBITA率13〜15%、ROICを12〜13%に高める目標が掲げられています。2009年の危機の時点では想像もできなかった水準です。このような高い目標を現実的に語れるのも、選択と集中を地道に続けてきた結果にほかなりません。東原氏が「自律分散型グローバル経営」という言葉で表現しようとしたのは、単なる組織論ではありません。それは「強みを明確にし、その強みをどこでも同じ品質で発揮できる仕組みを作る」という哲学です。鉄道システムの分散設計から経営哲学を導いたという事実は、技術者出身のリーダーらしい発想であり、同時に非常に具体的で説得力のある考え方です。日立の家電売却を「日本の製造業の敗北」と見るのは、あまりに単純な見方です。むしろそれは、変わることを恐れなかった企業の選択であり、強みに集中するための痛みを伴う決断でした。その結果が本当に正しかったかどうかは、ルマーダがこれからどれだけ世界で存在感を高めていくかにかかっています。家電を捨てた日立は、今まさに、新しい日立になるための試練の中にあります。1990年代の家電全盛期、日立の冷蔵庫には「日立」というロゴが誇らしげに輝いていました。そのロゴが家庭の台所から消えていくとき、私たちは一つの時代の終わりを感じます。しかしその一方で、電力グリッドの制御システムや都市交通の管理基盤の中に、同じ「日立」が静かに息づいていることを知れば、見方は変わるかもしれません。企業の存在感とは、家庭に見えるものだけではないのです。参考文献東原敏昭著「日立の壁」(2023年) 日本経済新聞「日立、上場子会社ゼロへ」関連報道 日立製作所 2025年3月期連結決算概要(2025年4月発表) 日立製作所 中期経営計画「Inspire 2027」(2025年4月発表) RIETI(経済産業研究所)「グローバル経営と自律分散型組織」関連論文 日立製作所 統合報告書 2022年度版 ノジマ株式会社プレスリリース「日立グローバルライフソリューションズ株式取得に関するお知らせ」(2021年) 日経クロステック「日立2024年4〜9月期決算」(2024年10月)