薬師如来が教えてくれること薬学部を卒業し、薬剤師の資格を持つ身としては、薬師如来という存在にはどうしても特別な思いを抱いてしまいます。お寺で薬師如来の仏像を目にすると、すぐにそれとわかります。左手に薬壺を持っているからです。そしてその両脇には、日光菩薩と月光菩薩という2体の脇侍が控えています。この構図は、よく考えてみるととても興味深いものです。太陽と月という、古代の人々にとって最も偉大な天体が、あくまで脇役として左右に配されているのです。その中心に据えられているのが「薬師」、つまり薬を扱う者であるということは、当時の人々が薬や治療にどれほど大きな期待と畏敬の念を寄せていたかを物語っているように思えます。私たちは現代の医学に慣れ親しんでいるため、病気になればとりあえず病院に行けばよいと考えます。しかし、かつての人々にとって病気とは、なぜかかるのかもわからず、いつ襲ってくるかも予測できない、理不尽そのものの脅威でした。原因がわからないものに対して、人々が祈りや念仏に頼ったのは自然なことです。しかしそれだけでは足りなかったのでしょう。祈りよりも確実に効果を感じられる手段として「薬物治療」が見出され、やがてそれが神格化されていったのだとしたら、薬師如来という存在が生まれたことも十分に納得がいきます。ところで、日光菩薩と月光菩薩という脇侍の由来については、もうひとつ興味深い説があります。古代インドの伝統医学であるアーユルヴェーダの古典『チャラカ・サンヒター』には、薬の調合に関する独特の教えが記されています。それによると、薬は太陽の光のもとで煎じ、月の光のもとで冷ますことによって、その効力が増すのだといいます。もしこの教えが薬師如来の信仰に影響を与えたのだとすれば、日光と月光の菩薩が脇に控えているのは、薬師如来が太陽と月の力を借りて霊験を発揮するという意味になります。古代の医学と宗教が深く結びついていたことを感じさせる、とても示唆的なエピソードです。5000年の歴史を持つ薬物治療薬師如来の話から少し視野を広げて、薬の歴史そのものに目を向けてみましょう。人類が薬を使い始めたのは、いったいいつ頃のことなのでしょうか。先ほど触れた『チャラカ・サンヒター』は、2000年以上前に著されたと考えられています。しかし、薬の歴史はそれよりもさらに古い時代へと遡ります。中国には『黄帝内経』という医学書があり、これも2000年以上の歴史を持つとされています。エジプトでは『エーベルス・パピルス』と呼ばれる医学文書が知られており、紀元前1500年頃のものとされるこの巻物には、数百種類の薬や治療法が記録されています。さらに遡ると、およそ5000年前の古代メソポタミアでは、粘土板の上に薬の調合法や薬草療法について刻まれた記録が残されています。こうした記録をたどっていくと、人類が何千年にもわたって薬を使い続けてきたことは疑いようがありません。しかも注目すべきは、これらの記録はすべて文字が発明された後に残されたものだということです。文字が生まれた時点ですでに薬が存在していたのですから、薬の起源が有史以前、つまり文字による記録が始まるよりもさらに昔に遡ることは確実です。では、文字のない時代の薬について、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。考古学的な発掘調査から手がかりが得られることもありますが、もうひとつ、とても意外な方向から光を当ててくれた研究があります。それは人間ではなく、私たちに近い動物たちの行動を観察するという方法です。もし人間以外の霊長類が薬を使っているのだとしたら、薬を使うという行為の起源は、人類が人類になるよりもさらに前の時代にまで遡る可能性があるということになります。そして実際に、そのことを示唆する驚くべき発見が報告されました。塗り薬を使ったオランウータン2024年5月、ドイツのマックスプランク研究所に所属するイザベル・ラウマー博士らの研究チームが、学術誌「サイエンティフィック・レポーツ」に1つの論文を発表しました。その内容は、インドネシア・スマトラ島の熱帯雨林に暮らす野生のオランウータンが、傷の治療に植物を利用したというものでした。研究チームが観察していたのは、ラクスと名づけられたオスのオランウータンです。ある日、ラクスの顔に傷があることに気づきました。オスのオランウータン同士は、縄張りやメスをめぐって激しく争うことがあります。おそらくそうした闘争の中で負傷したのでしょう。観察を続けていると、3日ほど経った頃から傷口が化膿し始めました。このまま悪化すれば、感染症を引き起こす危険もあります。ところがラクスは、研究者たちの予想を超える行動をとりました。森の中から「アカルクニン」という植物の葉を摘み取り、それを口に入れて噛み始めたのです。ここで重要なのは、オランウータンがアカルクニンを食べることはほとんどないという事実です。そもそも口に入れること自体が非常に珍しい行動として記録されています。つまりラクスは、空腹を満たすためにこの植物を噛んだのではありません。ラクスは30分ほどかけて丁寧に葉を噛み続け、ペースト状になるまで砕きました。そしてそのペーストを、7分間にわたって傷口にじっくりと塗り込んだのです。まるで軟膏を塗るかのような、明らかに意図的で計画的な行動でした。さらに驚くべきことに、塗布した後はハエなどの虫が傷口に近づかないよう、葉で患部を覆うような仕草も見せました。その後の経過も注目に値します。アカルクニンのペーストを塗ってから5日後には傷口が閉じ始め、1ヵ月後にはほぼ完治していました。もちろん、これだけをもって薬の効果があったと断定することはできません。自然治癒の力も当然はたらいていたでしょう。しかし、化膿し始めていた傷がこれほど順調に回復したことは、アカルクニンの成分が何らかの役割を果たした可能性を強く示唆しています。実はアカルクニンという植物は、スマトラ島の現地の人々の間では昔から薬用植物として利用されてきました。抗炎症作用や抗菌作用、さらには鎮痛作用を持つ成分が含まれていることが、科学的にも確認されています。ラクスがこの植物を選んだのは偶然だったのでしょうか。それとも、何らかの形でその薬効を知っていたのでしょうか。アフリカでは以前から、チンパンジーが体内の寄生虫を駆除するために特定の薬用植物を飲み込む行動が知られていました。葉をあえて噛まずに丸飲みすることで、葉の表面のザラザラした繊維が腸内の寄生虫を絡め取って排出するのです。このような「自己投薬」と呼ばれる行動は、霊長類の研究において重要なテーマの1つとなっています。しかし、これまで観察されてきたのはあくまで経口摂取、つまり口から薬を飲むという行動でした。植物を噛み砕いてペースト状にし、それを患部に直接塗るという「塗り薬」としての利用が野生の動物で確認されたのは、今回のラクスの事例が世界で初めてのことです。これは単に珍しい行動が見つかったというだけの話ではありません。薬の使い方に「内服」と「外用」という区別が、人間以外の動物にも存在しうるということを示した画期的な発見なのです。「薬」の起源と動物たちの奇跡ラクスの行動を知ると、薬というものの起源について改めて考えさせられます。私たち人間は、いつ、どのようにして薬を使い始めたのでしょうか。1つの手がかりは、言葉の中に隠されています。日本語の「くすり」という言葉の語源には諸説ありますが、有力なものの1つに「草」に由来するという説があります。身の回りに生えている草や木の中から、体に良い作用をもたらすものを見つけ出し、それを「くすり」と呼ぶようになったという考え方です。確かに、現代の医薬品の中にも植物由来の成分は数多く存在します。アスピリンのもとになったサリチル酸はヤナギの樹皮から発見されましたし、マラリアの治療薬キニーネはキナの木の樹皮から得られたものです。薬の歴史は、植物との付き合いの歴史でもあるのです。一方で、「くすり」の語源として「奇し(くすし)」という言葉を挙げる説もあります。「奇し」とは、不思議で霊妙なさまを表す古語です。病に苦しむ人が草や木の汁を口にしたところ、不思議なことに症状が和らいだ。その「奇跡」のような体験が、やがて「くすり」という言葉を生んだのかもしれません。この「奇し」という語源説は、ラクスの行動を見ていると妙に説得力を帯びてきます。森の中で暮らすオランウータンが、普段は口にしない植物をわざわざ選び出し、丹念に噛み砕いてペーストにし、傷口に塗り込む。その一連の行動は、まさに「奇跡」と呼びたくなるようなものです。もちろん、これを神秘的に捉えすぎるのは科学的とは言えません。動物が体調の悪いときに特定の植物を摂取する行動は、長い進化の過程で獲得された本能的な知恵である可能性もありますし、個体の学習や経験の蓄積によるものかもしれません。母親や仲間の行動を観察して学んだ可能性も考えられます。しかしいずれにしても、薬を使うという行為が人間だけの専売特許ではないことは、もはや明らかです。5000年前のメソポタミアの粘土板、古代エジプトのパピルス、インドのアーユルヴェーダ、中国の医学書。そして日本の薬師如来。人類は世界各地で、それぞれの文化の中で薬を見出し、発展させてきました。その営みの根っこをたどっていくと、スマトラの熱帯雨林で傷に薬草を塗るオランウータンの姿にたどり着くのかもしれません。薬師如来が左手に持つ薬壺の中には、どんな薬が入っているのでしょうか。それはもしかしたら、人間が発明したものではなく、はるか昔から動物たちが森の中で見つけ出していた、自然の恵みそのものなのかもしれません。ラクスの行動は、薬の歴史が私たちの想像をはるかに超えて古く、そして深いものであることを、静かに教えてくれています。参考文献Laumer IB, et al. "Active self-treatment of a facial wound with a biologically active plant by a male Sumatran orangutan." Scientific Reports, 2024年5月『チャラカ・サンヒター』(Charaka Samhita)――古代インド・アーユルヴェーダの古典医学書『黄帝内経』――古代中国の医学書『エーベルス・パピルス』(Ebers Papyrus)――古代エジプトの医学文書(紀元前1500年頃)古代メソポタミアの粘土板における薬草療法の記録