現代日本社会の深層を理解する上で、政治思想家・丸山眞男が提示した「である」社会と「する」道徳、という考え方は、今でも私たちに多くの大切なことを教えてくれます。この対比は、私たちの社会がどのように規範を内面化し、あるいは外化してきたかを鮮やかに描き出します。具体的なデータや事例も交えながら、この二つの概念が現代日本社会に与える影響を考えていきます。「である」社会の特性とその現代的変容「である」社会とは、個人が特定の集団や共同体、あるいは伝統といった外部の権威によってあらかじめ定められた規範を所与のものとして受け入れ、「〜であるべきだ」という役割を全うすることが求められる状態を指します。この概念は、日本の歴史的な社会構造、特に村社会や家制度に深く根差しています。そこでは、個人の行動は「家名」や「村の和」といった共同体の存続と調和のために厳しく規定され、逸脱は許されませんでした。戦後の日本においては、この「である」規範は、企業社会へとその形を変えて浸透しました。終身雇用制度や年功序列制度は、個人が「会社の一員である」ことで、その役割と責任が明確に与えられる典型的な例です。従業員は「滅私奉公」の精神で会社に尽くすことが美徳とされ、「会社人間であるべき」という暗黙の規範が共有されました。例えば、深夜まで続く長時間労働や、休日返上でのゴルフ接待といった慣習は、個人が会社の期待する役割を全うする「である」べき姿として受け入れられてきました。こうした強固な集団主義的な規範が、1960年代から1980年代にかけての実質GDP成長率が平均約6%という経済的繁栄を支えた一因であることは疑いありません。しかし、現代社会の多様化やグローバル化の中で、この「である」規範は深刻な課題を露呈しています。ある調査(2020年)では、日本人の約9割が「日本人は集団主義だ」と認識する一方で、約5割が「自分は個人主義だ」と回答しており、個人の意識と社会規範との間に大きな乖離が見られます。この乖離は、企業の会議における「根回し」や「空気読み」といった慣習に典型的に現れます。例えば、新しいプロジェクトの提案であっても、事前に多数派の意見を測り、それに合わせて調整する傾向が強く、異論が封じ込められたり、画期的なアイデアが埋没したりするといった弊害が指摘されています。これは、集団の和を乱すべきでないという「である」規範が、建設的な議論やイノベーションを阻害している実態を示しています。また、若者の意識調査(2019年)で約30%が「自分は社会や人の役に立っている」という実感を抱いていないという結果は、従来の集団の中での役割規範が、個人の自己実現欲求と合致しなくなっている可能性を示唆しています。企業に定年まで「である」ことの価値が揺らぐ中で、2016年以降、年間300万人を超える転職者が生まれているのは、「会社人間であるべき」という規範から脱却し、個人のキャリアを主体的に「する」方向へと意識が向かっていることの証左でしょう。「する」道徳への希求と直面する課題「する」道徳とは、個人が自らの内面的な判断と意志に基づいて、自律的に規範を形成し、行動を選択していく道徳を指します。それは、外部からの強制や伝統に縛られず、個々人が「〜すべきだ」と主体的に考え、責任をもって行動することです。丸山眞男が指摘したように、近代化の過程で日本社会がこの「する」道徳を十分に内面化できなかったことが、現代にも続く様々な課題の根底にあると考えられます。現代社会では、SDGs(持続可能な開発目標)への取り組みや、多様性を尊重するダイバーシティ&インクルージョン(D&I)への動きなど、個々人の主体的な倫理観が求められる場面が増えています。しかし、世界経済フォーラムが発表した2025年の「ジェンダーギャップ指数」で日本が148カ国中118位と低迷している事実は、未だに「男性がこうあるべき」「女性がこうあるべき」といった旧来の性別役割分業意識、すなわち「である」規範が根強く残っていることを示唆しています。例えば、企業の女性管理職比率が低水準にとどまり、育児休業取得に対する職場の雰囲気など、制度面が整っても「こうあるべき」という規範が個人の選択を妨げるケースは枚挙にいとまがありません。「する」道徳への移行は、決して容易ではありません。個人が自律的に判断し行動するためには、情報を見極める批判的思考力、失敗を恐れない挑戦心、そして行動の責任を引き受ける覚悟が必要です。しかし、日本の自己肯定感に関する調査(2022年)では、20〜40代の日本人の約60%が自己肯定感が「やや低い〜かなり低い」と回答し、高校生に至っては約75%が「自分はダメな人間だと思うことがある」と感じています。この圧倒的に低い自己肯定感は、新しいことへの挑戦や、自身の意見を表明することへの躊躇を生み出し、「する」道徳の発揮を根本的に妨げる要因となり得ます。「人と同じであるべき」「失敗を恐れる」といった心理的傾向は、「である」規範の負の側面として、個人の自律的な行動を抑制していると考えられます。仕事に対する若者の価値観も大きく変化しています。Z世代を対象とした調査(2023年)では、約61%が「人前で褒められたくない」と回答し、約27%が「出世したくない」と考えていることが判明しています。これは、従来の「出世して会社に貢献するべき」という「である」規範ではなく、「ワークライフバランスを重視したい」「自分らしい働き方をしたい」といった「する」道徳に基づいた価値観が台頭していることを示しています。実際に、企業が副業や兼業を容認する動きが広がり、個人の裁量で働くフリーランスを選択する若者も増加傾向にあります。これらは、会社に「所属する者である」という意識から、「自分のスキルや興味に基づいて働く」という意識への転換、すなわち「する」道徳の具現化と言えるでしょう。しかし、企業側の体制はまだ十分に追いついていません。イノベーション推進の課題として、「異なる優先事項の存在(本業が忙しいなど)」(約48%)や「組織文化・従業員の抵抗」(約28%)が挙げられており(2025年調査)、既存の「である」慣習が新しい挑戦を阻む壁となっている実態が浮き彫りになっています。例えば、「前例がないから」「これまでのやり方ではないから」といった理由で、新しい技術導入や事業転換の提案が却下されるケースは少なくありません。これは、従業員が「現状維持であるべきだ」という無意識の規範に囚われ、変化を「すべきではない」と捉えているためかもしれません。「である」と「する」の調和を目指す社会へ現代日本社会は、「である」社会の持つ安定性や共同体意識の利点を維持しつつ、「する」道徳に基づく個人の自律性や多様性を尊重する社会への変革が求められています。これは、「である」か「する」かの二者択一ではなく、両者のバランスをいかに取るかという問いです。企業においては、画一的な指示命令系統から、個々の従業員の自律性を尊重し、イノベーションを促す組織文化への転換が不可欠です。リモートワークの普及やジョブ型雇用への移行、そしてOKR(Objectives and Key Results)のような目標管理手法の導入は、従業員が自らの専門性や能力に基づいて「する」道徳を発揮する機会を増やし、主体的な業務遂行を促します。例えば、日立製作所が社内公募制度を拡充し、従業員が自らキャリアパスを選べる機会を増やしている事例は、「する」道徳を育む具体的な施策の一つです。また、社内新規事業コンテストなどは、既存の枠組みにとらわれず、従業員が「やりたい」ことを「する」機会を提供し、イノベーションを促進します。教育現場においても、知識の詰め込み型教育から、批判的思考力や問題解決能力を育むアクティブラーニング、特にPBL(Project Based Learning)の導入が重要です。生徒自身が問いを立て、情報収集し、解決策を探るプロセスを経験させることで、自律的な学びと「する」道徳の基礎を育むことができます。例えば、地域の課題をテーマに生徒たちが解決策を提案するプロジェクトは、単なる知識習得に留まらず、社会の一員として「すべきこと」を自ら考える力を養います。社会全体で、倫理的思考力や公共心、多様性を尊重する心を育むための機会を増やすことも不可欠です。ある調査(2021年)では、「日本社会には、社会的マイノリティへの偏見や差別がある」と回答した人が約86%に上る一方で、20代ではその意識が10ポイント以上減少しているというデータもあります。これは、若年層を中心に、多様性に対する意識が徐々に変化している兆しとも言えるでしょう。NPO法人や地域活動への参加、プロボノ(専門的なスキルを提供するボランティア活動)など、個人が社会課題を「自分ごと」として捉え、自ら行動する経験を積む機会を増やすことが、「する」道徳を育み、より包摂的で持続可能な社会を築く上で重要な役割を果たすと考えられます。現代日本は、画一的な「である」規範の安心感と、個人の自律性が求められる「する」道徳の間で揺れ動いています。この二つの概念を深く理解し、そのバランスをいかに再構築するかが、今後の社会の発展にとって極めて重要な課題であると言えるでしょう。参考文献丸山眞男 著, 『日本の思想』, 岩波書店丸山眞男 著, 『「である」社会と「する」道徳』, 未公表論文集内閣府 「国民生活に関する世論調査」世界経済フォーラム 「ジェンダーギャップ指数」日本生産性本部 「新入社員「働くことの意識」調査」東洋経済オンライン 「日本人は「みんなと一緒が好き」という大誤解」厚生労働省 「新しい時代の働き方に関する研究会 報告書 参考資料」SHIBUYA109エンタテイメント 「Z世代の仕事に関する意識調査」アットプレス 「2022年版 自己肯定感現状調査」プレジデントFamily Online 「「日本人は自己肯定感が低すぎる」はウソだった…」日本財団18歳意識調査結果 第62回テーマ「国や社会に対する意識(6カ国調査)」日本財団 「ダイバーシティ&インクルージョンに関する意識調査」