稀代の天才、その知られざるギャンブラー的側面ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。この名は、音楽史に燦然と輝く巨星として知られています。しかし、彼の人生には、あまり語られることのない、数字に裏打ちされた投機的側面が存在しました。本稿では、彼が単なる芸術家ではなかった、ある意味でのリスクテイカーとしての顔を、具体的なデータとエピソードとともに浮き彫りにします。彼の生い立ちは、天才の萌芽を早くから示していました。1756年1月27日、モーツァルトはザルツブルクで、父レオポルトと母アンナ・マリアの間に生まれました。父レオポルトは、ザルツブルク大司教の宮廷音楽家であり、優れた音楽教師でもありました。彼は幼いヴォルフガングと姉ナンネルの才能をいち早く見抜き、彼らを徹底的に教育しました。モーツァルトは3歳でチェンバロを弾き始め、5歳で作曲を行うなど、驚異的な才能を発揮します。幼少期から、モーツァルトは父に連れられ、ヨーロッパ各地を巡る演奏旅行に明け暮れました。これは、彼の音楽的才能を披露し、将来のパトロンを見つけるための、言わば「早期投資」でした。ウィーン、ミュンヘン、パリ、ロンドン、アムステルダムなど、当時の主要都市を回り、王侯貴族の前で演奏を披露しました。これらの旅行は莫大な費用を伴いましたが、同時に高い評価と、時には金銭的な報酬をもたらしました。例えば、ロンドンでは、時の国王ジョージ3世の前で演奏し、厚遇を受けました。しかし、これらの収入は常に安定しているわけではなく、旅の途中で病気になったり、予定が狂ったりすることも少なくありませんでした。幼い頃から、モーツァルトは自身の才能が一種の商品であり、それを市場で最大限に活用するためのリスクを負うことを、無意識のうちに学んでいったのかもしれません。彼のキャリアは、ザルツブルク大司教の宮廷音楽家としての職から始まりました。しかし、彼は宮廷の束縛を嫌い、より自由な活動を求めてウィーンへと飛び出します。これは、安定した雇用を捨てて、自らの才能を頼りにフリーランスとして生きていくという、大きな投機でした。ウィーン時代の初期、彼はフリーランスの音楽家として、演奏会やレッスンの収入に大きく依存していました。記録によれば、1784年の収入は約3,700フローリンに達しました。当時のフローリンの価値を現在の日本円に換算するのは非常に難しい作業ですが、物価や購買力を考慮に入れると、諸説ありますが、1フローリンが概ね2万円から5万円程度の価値を持っていたと考えられています。この試算に基づくと、彼の1784年の収入は約7,400万円から1億8,500万円に匹敵し、これは当時の高位官僚の年収を大きく上回る額でした。当時のパン職人の年収が約250フローリン(約500万円~1,250万円)だったことを考えると、モーツァルトの収入は破格であり、彼がいかに経済的に恵まれていたかが分かります。しかし、この収入は彼の支出と常に均衡していたわけではありません。ギャンブラーへの傾倒彼はしばしば、投機的な行動に打って出ました。その一つが、今日の宝くじに相当する「数当てゲーム」への傾倒です。ウィーンでは、この種のゲームが盛んで、多くの市民が財産を投じて一攫千金を夢見ていました。モーツァルトもまた、この誘惑に抗えなかったようです。彼の書簡には、借金の依頼や、高額な宝くじ購入に関する言及が散見されます。例えば、1788年には、妻コンスタンツェの治療費を工面するため、友人への手紙で「もしあなたが少しばかりの金を融通してくださるなら、私はすぐにそれを使って宝くじを買うつもりです。もし当たれば、あなたの借金はすぐに返せます」と記しています。この時期の彼の借金は、年間収入の数倍に達することも珍しくありませんでした。具体的には、1787年頃には、少なくとも1,400フローリン以上の負債を抱えていたと推測されており、これは彼の年間収入の約4割に相当します。現在の価値に換算すれば、約2,800万円から7,000万円の借金を抱えていたことになります。そして、残念ながらこの宝くじは当たらず、「またしても宝くじで負けた」と嘆く記述が残されています。また、彼の生活様式も、ある種のギャンブルであったと言えるでしょう。彼は華やかな社交生活を好み、高価な衣装や馬車、住居に多額の費用を費やしました。これは、将来の収入を当て込んだ、ある種の「先行投資」とも解釈できます。当時の音楽家にとって、上流階級とのコネクションは成功に不可欠であり、そのための支出は避けられないものでした。しかし、彼の支出はしばしば、その見込みを上回っていました。1789年には、彼は自身のオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の作曲料として900フローリン(約1,800万円~4,500万円)を受け取っていますが、この時期の彼の負債総額は既に数千フローリンに膨れ上がっていました。彼の賃貸していたアパートの家賃だけでも年間200フローリン(約400万円~1,000万円)を超え、これは当時の一般市民の年間生活費に匹敵する額でした。あるエピソードでは、友人から借りたお金で高価なビリヤード台を購入し、その返済を後回しにしたとも伝えられています。彼にとって、目先の欲望を満たすことと、長期的な財政計画のバランスは常に課題でした。彼はまた、音楽作品の予約販売という形での投機も行いました。これは、今日のクラウドファンディングに近い形態であり、完成前の作品に対してパトロンから資金を募るものです。彼はこの方法で、自身の演奏会や新作の制作資金を調達しました。成功すれば大きな利益が見込めますが、不評に終われば資金回収は困難になります。1780年代半ばには、彼の予約演奏会は大きな成功を収め、一度に数百フローリンもの収入をもたらしましたが、晩年にはその人気も陰りを見せ、資金集めに苦慮する場面も増えました。例えば、1785年の予約演奏会では約200人の予約者から約1,200フローリン(約2,400万円~6,000万円)の収益を得ていますが、その後の演奏会ではその数は激減し、1791年にはわずか数名の予約者しか集まらなかった記録も残っています。ある時期、彼は複数のピアノ協奏曲を同時に作曲し、それらを予約販売することで資金を確保しようとしましたが、すべての作品が期待通りの成功を収めたわけではありませんでした。死因は経済的な逼迫による精神的なものと過労モーツァルトは、自身の経済状況を改善するため、様々な試みを行いました。例えば、フリーメイソンへの加入もその一環と考えられます。フリーメイソンのネットワークを通じて、裕福なパトロンとの繋がりを求め、安定した収入源を確保しようとしたのです。実際、フリーメイソン関係者からの支援は少なからずありましたが、彼の財政状況を根本的に好転させるには至りませんでした。彼はまた、銀行家や貴族に借金を重ね、その返済に追われる日々を送りました。彼の死後、残された財産はごくわずかで、彼の負債はかなりの額に上っていたことが記録されています。ある説では、彼の死因の一つに、精神的なストレスと過労による体調悪化があったとされていますが、そのストレスの多くは経済的な逼迫に起因していたのかもしれません。モーツァルトの人生を数字で追っていくと、彼の才能と同時に、そのリスクに対する果敢な姿勢が見えてきます。彼は、安定を求めるよりも、自身の才能と運を信じ、時に大胆な賭けに出ました。その結果、巨額の富を築くことはありませんでしたが、彼の生み出した音楽は、その投機的な人生の混沌の中から生まれた輝かしい宝石と言えるでしょう。彼の人生は、予測不可能な要素と隣り合わせに生きる芸術家の、ある種の典型を示しているのかもしれません。引用元ギュンター・G・バウアー『ギャンブラー・モーツァルト 「遊びの世紀」に生きた天才』