Thinking Machines Labとは2026年5月、AIとの対話の根本的な在り方を変えようとする論文が発表されました。タイトルは「インタラクションモデル:Human-AI協働のスケーラブルなアプローチ」。一見するとテクニカルな研究報告に見えますが、その中身は「AIとどう付き合うか」という私たちの日常の問いに直結する非常に実践的な提案です。この論文を理解するにはまず研究チームの背景を知っておく必要があります。彼らが「何を目指して」この研究をしているかが技術の方向性を決定づけているからです。Thinking Machines Labは2025年2月、元OpenAIのCTO(最高技術責任者)だったミラ・ムラティを中心に立ち上げられました。ムラティはOpenAI在籍中にGPT-4やChatGPTの開発を指揮した人物で、AI業界で最も影響力のある人物の1人として広く知られていました。彼女が2024年9月にOpenAIを退社した際、「自分自身の探求のための時間と空間を作りたい」と述べたことは大きな話題を呼びました。創業チームは、AI業界の豪華メンバー名鑑と呼びたくなるような顔ぶれでした。OpenAIの共同創業者であるジョン・シュールマンがチーフサイエンティスト(主席研究者)として参加し、元OpenAI研究担当VPのバレット・ゾフがCTOを務め、リリアン・ウェン、アンドリュー・タロック、ルーク・メッツも名を連ねました。チーム全体の約3分の2がOpenAI出身者で、残りはMeta、Google DeepMind、Mistralといった錚々たる研究機関からの参加者です。ただし設立から1年余りで人事の嵐が吹き荒れました。2026年1月にバレット・ゾフとルーク・メッツがOpenAIに復帰し、アンドリュー・タロックはMetaへ、デヴェンドラ・チャプロットはxAIへと去りました。特にゾフの離脱は衝撃的で、ムラティが「倫理的でない行為」を理由に解雇した直後、1時間も経たずにOpenAIへの復帰が発表されるという業界の話題をさらう展開となりました。現在の中心メンバーはムラティがCEO、PyTorch(パイトーチ)の生みの親として知られるソウミス・チンタラがCTO、そしてジョン・シュールマンがチーフサイエンティストとして残っています。チンタラという人物はMeta社内でPyTorchというAI開発の基盤ツールを作った人です。PyTorchは今や世界中のAI研究者がほぼ毎日使うソフトウェアで、いわば「AIを作るための道具を作った人」です。その設計者がインタラクションモデルの技術的な舵取りをしているという事実は、研究の信頼性を大きく裏付けています。現在の従業員数は150名を超えており、設立時から4倍以上に拡大しています。資金調達の総額は10の投資家から20億ドル(約3000億円)に達しています。AIはなぜ「一人で仕事をしたがる」のか現在のAI開発の主流は「自律性」の追求です。人間がいなくても長時間タスクをこなせるモデルこそが優秀だ、という考え方が業界全体に広まっています。しかし現実の仕事はどうでしょうか。最初から要件を完全に定義して、あとはAIに丸投げできる仕事など、実際にはほとんど存在しません。プロジェクトの途中でクライアントの要望が変わる、コードを書きながら設計の問題に気づく、文章を書いていて方向性を変えたくなる。人間の仕事はそうした試行錯誤の連続です。そこに「人間が途中で関われる余地」がなければ、AIはどれだけ賢くても、実際の現場では力を発揮しきれません。この問題を研究チームは「協働のボトルネック」と名づけています。人間がAIの使い方に合わせて自分を変えるのではなく、AIの側が人間に合わせて動く——その発想の転換がこの研究の出発点です。ターンベースという「古い手紙のやり取り」の問題現在のAIモデルはほぼすべて、「ターンベース」と呼ばれる仕組みで動いています。ユーザーが文章を送り、AIが返事をする。また送る。また返事が来る。この繰り返しです。この仕組みの最大の問題は、AIが「今この瞬間」を感じられないことです。ユーザーがキーボードを叩いている間、AIには何も見えていません。AIが文章を生成している間、ユーザーの様子は一切わかりません。まるで手紙でやり取りをしているようなものです。重要な商談を手紙でこなそうとする人はいないでしょう。なぜなら人間のコミュニケーションは、うなずき、表情、声のトーン、間の取り方といったリアルタイムの情報によって成り立っているからです。同じことがAIとの対話にも言えます。「話が長くなってきたな」と感じた瞬間に割り込む、相手が言い間違えたらその場で指摘する、カメラに映った状況を見てアドバイスをする——こうした当たり前の対話が、今の仕組みでは原理的にできません。この問題を解決しようと、既存のシステムは「ハーネス」と呼ばれる外付けの部品を使ってきました。音声活動検出(VAD)という部品がユーザーの話し終わりを検知し、そのタイミングでAIに信号を送る仕組みです。しかしこのVADは、AIモデル本体と比べると非常に単純な判定しかできません。声の音量パターンを見て「話し終えた」か「まだ話している」かを判断するだけで、会話の文脈や話し手の意図を読むことはできません。そのため、ユーザーが考えながら話すと誤って割り込んだり、反応すべきタイミングを逃したりします。研究チームの主張はシンプルです。インタラクション(対話)をモデルの外側に後付けするのではなく、最初からモデルの中に組み込むべきだ。そうすれば、モデルが賢くなるほど対話も自然になる。「会話のうまさ」は「賢さ」と一緒に育てなければならない、というわけです。200ミリ秒の革命、マイクロターン設計今回提案されたインタラクションモデルの核心は、「マイクロターン」という設計思想です。従来のモデルが「ユーザーが話し終えてから考え始める」という一本道の処理だったのに対し、インタラクションモデルは200ms(0.2秒)ごとに入力と出力を同時に処理します。200msとは、人が「あ」と声を出してから次の音を出すまでの時間より短い、ほぼ知覚の限界に近い単位です。この設計のどこが革命的なのかというと、「沈黙」も「話しかぶり」も「割り込み」も、すべてAIの処理の一部になる点です。ユーザーが黙っていること、ユーザーとAIが同時に話していること、ユーザーが話の途中で言い直したこと——これらすべてが、途切れないストリーム(流れ)の中の「情報」として扱われます。具体的に何が変わるか、わかりやすい例で考えてみましょう。スペイン語から英語へのリアルタイム同時通訳が可能になります。ユーザーが話し続けている最中に、AIが訳出を並行して流すことができるのです。今の仕組みでは、発話が終わってから翻訳が届くため、実際の会議や商談では使い物になりません。腕立て伏せの回数を数えてほしい、というシンプルなお願いを考えてみてください。今のAIにカメラを向けても、ユーザーが「今何回ですか」と聞くまで何も言いません。しかしインタラクションモデルは、カメラの映像を見続けながら「1回、2回、3回……」とリアルタイムで声に出すことができます。呼吸トレーニングのアシスタントとして「4秒ごとに吸って吐いてと声をかけて」と頼むと、AIは時間の経過を正確に感知しながら、ぴったり4秒おきに指示を出すことができます。これは「時間の感覚」がAIの中に組み込まれているからこそ実現します。2層構造が生む「速さと深さ」の両立しかし、すべての処理をリアルタイムで行うには限界があります。複雑な考え事、ウェブ検索、長い文章の生成——こうした重い処理は0.2秒では終わりません。同社はこの問題を2層構造で解決しています。表に立つ「インタラクションモデル」が会話のリアルタイム処理を担い、重い処理が必要な場合は「バックグラウンドモデル」に任せます。大切なのは、任せている間もインタラクションモデルが会話の場に居続けることです。「少し調べますね」と言いながらユーザーの別の質問にも答え、バックグラウンドから結果が届いたら自然な流れの中で会話に織り込みます。この設計は、職場のチームワークに似ています。窓口担当がお客さんと話し続けながら、専門担当がバックヤードで調べ物をする。答えが出たら自然な流れで報告する。AIとの対話がそういうチームプレイのような形になることを、今回のシステムは目指しています。技術的な工夫も面白いです。音声と映像を処理するために大きな専用ソフトを使うのではなく、音声は「dMel」という軽量な形式で、映像は小さな40×40ピクセルのブロックに分割して処理します。すべての部品をゼロから一緒に学習させることで、「後から組み合わせた」ではない、本当に統合された知覚を実現しています。また、0.2秒ごとにGPU(AIの計算チップ)に処理を投げ続けることで生じる遅延の問題を解決するため、「ストリーミングセッション」という独自の仕組みを開発し、その成果をオープンソースのSGLangというソフトウェアにも提供しています。ベンチマークが示す、まったく次元の違う能力論文が発表した測定結果は、既存モデルとの差を鮮明に示しています。会話の質を測るFD-bench v1.5では、TML-Interaction-Smallが77.8点を獲得。GPT Realtime 2.0の46.8点、Geminiの45.5点と比べると、30点以上の差があります。返答までの速さは0.40秒で、GPT Realtime 2.0の1.18秒、Geminiの0.94秒と比べても群を抜いています。さらに注目すべきは、今まで誰も測ろうとしなかった能力の差です。時間の感覚を測るTimeSpeakでは64.7対4.3。言葉の手がかりへの反応を測るCueSpeakでは81.7対2.9。映像に映った動作の回数を数えるRepCount-Aでは35.4対1.3。そして映像の変化に自分から反応するCharadesでは32.4対0でした。「0点」という数字の重みを考えてみてください。既存のAIは、カメラの映像が変化したのを見て、自分から話しかけることが原理的にできないのです。これは「能力の足りなさ」ではなく「設計思想の違い」から来ています。ポジティブな可能性と、見逃せないリスクこの研究が開く可能性は非常に大きいです。医療の現場を想像してみてください。医師が患者を診察しながら、AIが映像と音声をリアルタイムで見て聞いて、「この患者の呼吸パターンは昨日から変わっています」「今おっしゃった薬の量は通常の1.5倍です」と、状況に合わせた情報を途切れなく伝えてくれる。医師はカルテへの入力を止めることなく、AIと話しながら診察を進めることができます。学校の現場でも同様です。生徒がホワイトボードに数式を書いている途中で、AIが「あ、そこ符号が逆ですよ」とその場で指摘できるなら、学習の効率は大きく変わります。「書いて、送信して、待って、読む」という今の断絶したやり取りが消えるのです。一方で、見逃せない問題もあります。まず、カメラとマイクが常時AIに接続されている状態は、プライバシーのリスクを一段階大きくします。音声アシスタント(スマートスピーカーなど)とは比べ物にならないレベルで、ユーザーが意図しない情報が処理される可能性が高まります。次に、依存性の問題があります。いつでも反応してくれる存在が身近にいると、人間は「自分で考える」ことを少しずつ外注するようになっていきます。特に教育や医療の現場では、この問題は慎重に考える必要があります。また、低遅延の通信には安定したインターネット接続が欠かせません。つまり、回線の整っていない地域や国では、この技術の恩恵をほとんど受けられません。技術の進歩が一部の恵まれた環境にだけ届く、という不平等の問題は、見逃すことができません。さらに、悪用のリスクも考える必要があります。リアルタイムの対話では、悪意を持つ人が少しずつ誘導するような情報を会話の中に紛れ込ませる可能性があります。論文では自動テストで安全性を高めたと説明していますが、それは出発点に過ぎません。裏側に見える、業界のプレッシャーこの論文を読んで感じる、どこにも書かれていない「裏話」があります。同社はOpenAIやGoogleと比べれば、はるかに小さな組織です。しかしその分、大組織にはない「身軽さ」があります。既存のモデルへの投資が少ない分、ゼロから設計し直すことができる。インタラクションモデルが古い仕組みを完全に捨てて作られた背景には、こうした立場の有利さがあります。GPT-4oのリアルタイム音声機能が発表されたとき、デモ動画は世界的な話題になりました。しかしその後、多くの人が「実際に使い続けると、どこか不自然な間がある」「複雑な作業中には使いにくい」という感想を持ちました。これはAIの頭の悪さではなく、まさに「対話がモデルに後付けで組み込まれている」という設計の限界から来ているのです。今回の研究チームはその痛点を正確に突いています。SGLangへのオープンソース貢献も興味深いです。自社の技術を業界全体の共有ツールに組み込むことで、他の開発者が使いやすくしながら「業界標準」を作ろうとする意図が見えます。PyTorchを作ったソウミス・チンタラがCTOにいることを考えると、この動きは偶然ではないでしょう。PyTorchも最初はMeta内部のツールでしたが、オープンソース化によって世界標準になりました。同じ道を歩もうとしているように見えます。また、創業メンバーの3分の1が去ったという嵐を乗り越えて、まさにこのタイミングで新しい研究成果を発表したことには、業界外部へのメッセージも込められています。「私たちはまだここにいる。そして、他の誰も解いていない問題を解いた」というシグナルです。AIとの関係性をどう設計するかこの研究が問いかけているのは、技術の問題だけではありません。私たちがAIとどんな関係を結びたいのか、という問いです。AIを「道具」として使うのか、それとも「一緒に働くパートナー」として協力するのか。その答えによって、求めるべきインターフェースの形は変わります。インタラクションモデルは「パートナーとして協働する」未来に向けた、現時点での最も真剣な技術的回答です。ベンチマークの数字は印象的ですが、それ以上に大切なのは「既存のAIがこれらのテストでほぼ0点だった」という事実です。これは「頭の良さの差」ではなく「設計思想の差」です。今まで「難しいこと」とされてきた領域が、設計を変えることで突然できるようになる。技術の歴史はその繰り返しですが、今回その変化が起きている場所は「AIと人間の間」という、これ以上ないほど日常に近い場所です。ミラ・ムラティが2024年にOpenAIを去ったとき、「自分自身の探求のための時間と空間」という言葉を使いました。その「探求」の答えが、1年半後にインタラクションモデルという形で現れたとすれば、なかなか印象的な話です。いつの日か、AIとの対話が今のビデオ通話と同じくらい当たり前になったとき、私たちは「ターンベース」という言葉を懐かしく思い出すかもしれません。ちょうど今、「ダイヤルアップ接続」という言葉を懐かしく感じるように。参考文献Thinking Machines Lab, "Interaction Models: A Scalable Approach to Human-AI Collaboration", Thinking Machines Lab: Connectionism, May 2026. https://thinkingmachines.ai/blog/interaction-models/ Kwa, T., West, B., Becker, J., et al. "Measuring AI Ability to Complete Long Tasks." METR, 2025. Sutton, R. "The Bitter Lesson." Incomplete Ideas, 2019. http://www.incompleteideas.net/IncIdeas/BitterLesson.html Clark, H. and Brennan, S. "Grounding in Communication." Perspectives on Socially Shared Cognition, 1991. Hayek, F. A. "The Use of Knowledge in Society." The American Economic Review, 1945. Bai, et al. "dMel: Speech Tokenization made Simple." arXiv:2407.15835, 2024. Lipman, et al. "Flow Matching for Generative Modeling." arXiv:2210.02747, 2022. Goldman, S. "Former OpenAI CTO Mira Murati finally unveils her Thinking Machines Lab startup." Fortune, February 2025. "Thinking Machines Lab announces Soumith Chintala as new CTO." Social Samosa, January 2026. "Meta hires five Thinking Machines Lab founders including a reported $1.5 billion engineer." The Next Web, April 2026. "One-third of Thinking Machines Lab founding team exits amid fierce AI hiring battle." American Bazaar Online, May 2026. Contrary Research, "Thinking Machines Lab: Business Breakdown & Founding Story." 2026.